古田大次郎『死の懺悔』
編集者の前書き全文と本文項目概要、本書は古田の獄中ノートが纏められた。
古田は当初は長いテキストを書いていたが途中から日録として日付けを記し始めた。
江口渙「古田君を憶ふ」1925年12月23日
1922年9月25日頃、鵠沼で同居するようになった。
高野松太郎君の紹介で応援に来てくれた。
古田君と暮らした鵠沼の秋は愉快な懐かしい3ヶ月であった。
今年の1月に巣鴨の刑務所で縊死した後藤謙太郎君が、その頃、宇都宮の獄から出て来て、ひょっこり鵠沼へ私達を訪ねて来た。その時、古田君があんなに無口のくせに実に気のつく人であり、かつ、温かい心の持ち主であると云う事を私ははっきりと知る事が出来た。それは自分の蟇口からなけなしの金を出して、正宗の四合瓶を二本も買って来て、酒好きの後藤君にあてがったからだ。
自己に対して施す事の実にうすい人だった。
煙草はのんだ。然し、酒は全くのまなかった。
1925年10月15日午前8時25分、市ヶ谷刑務所の絞首台に登った。その夜6時、私達10数人の友人は古田君の棺を擔って刑務所の不浄門を出た。そして17日の朝にはもう骨になっていた。
布施辰治「序文」
古田君は......一般には勿論、一度か二度交遊した友人間にも、知られて居なかった。
古田君に交わりを求めたがった人も、獄に投ぜられた後の方が多かった。......
覚悟を語ろうとすれば、其の面会を阻止し、之を手紙に書けば、全然の発信不許可?其の点の抹消かに依りて、古田君の為人を語ったり聴いたりする交信接触の自由が奪われて居た。
此の間私は職務関係の便宜で、比較的自由に古田君が自ら語る真の為人に接触する機会を比較的多く恵まれて居た。
加藤一夫「序」
彼は僕に、彼について小説を書いてくれと云った。で、僕は既に、僕の雑誌『原始』に於て二回と『解放』で一回と短編を書いた。
1 1→17頁
1924年9月10日の未明、警視庁に引っ張られた村木君と僕とは...検事局に送られた。3
最初は大正10年12月末、例の社会主義同盟発会式前夜の建造物破毀事件の嫌疑で、区の検事局に呼ばれた事である。
警視庁の留置場に19日つながれて、9月29日の夕...村木君と僕とは...市ヶ谷刑務所に向った。4 5
中濱達の事も、ここにゐる和田君や村木君の事も、7
翌日、江口君から差し入れ弁当 8
父と妹、世田谷への引っ越し
猫のクロ
笹塚の江口君の手紙「中濱君は大阪の牢屋に、」 12
S子さんの事
2 18→32頁
大杉君は、監獄は僕達の別荘だと云つた 18
監獄、村木君の死 大杉君と 24 25
村木君を知ったのは大正11年の春、労運に遊びがてら 26
渡邊善壽と労運 26
頭に毛糸で編んだ、フチなしの帽子を被ってゐる...その人が村木君だったのである 26
中濱哲と語り合つて僕達の今日の運動を計画した。26
村木君は少しも人を責めない 27
あの日の午後急を聞いて...病室に這入った。僕よりも先に和田君が来ていた。27
和田君は赤くなつた眼をして、「もう解るまい。」と言つた。28
「村木君、村木君。」28
「村木君も死ぬのか。」29
和田君は、かう言つて、拳固で涙をグイとぬぐつた。29
和田君も情けないやうな顔をして僕を見た。30
村木君は危篤のまま、その夕、暗くなつてから、自動車で労運社に引きとられた。和田君と僕とは刑務所の玄関迄見送つた 30
村木君は、翌日の午後三時半に死んだ 30
「キリ、リと心臓が痛む。...」31
僕は恋愛や性欲などについて、自分の意見を述べた事がない。31
1925年2月25日
333→45頁
自分で生命を惜しんだわけを、大阪に捕はれてゐる友人──僕は僕のために、一年も未決に苦しんでゐる友人の嫌疑をはらさねば済まぬ身体だと思つてゐた──33
川柳一束 刑務所にて 43
裁判所にて 44
1925年2月27日
4 46→64
自分の秘密運動に対する信念について 46
参考人調書、朝鮮人K君からの批判 46
運動場から 51
運動場の前に、菜の畑がある 52
渋谷の僕の家、渋谷での10代の頃 55
宗教 58
復讐 60
小説に「モントクリスト」61
日付なし
5 65→85
クロという猫 65
鵠沼の江口君の家にゐたとき拾ひ上げたのである 65
江口君の愛犬の太郎さん 66
その内中濱が大阪から帰つて来た。彼によつて「クロ」といふ名が選ばれた。66
それは、この子猫が眞黒なのと、アナキズムの黒とからとつた名前である。 67
遊びに来た大杉君の膝の上に這ひ上つて、チョコナンと坐つたまま、大杉君に頭を撫でられてゐたときもある。67
江口君が去つてから、僕は、小田や南や、時々訪ねてくる友達と一緒にゐたが、クロはみんなの邪魔をして 67
小話一束、朝鮮でのエピソード、
和田君達の方の話だ。八月の三十日かに、例によつて村木君と和田君とは、福田の家の近くに出張して、大将の出るのを待つてゐた。80
村木君はなれた調子で 和田君に呼びかけた 81
村木君は 和田君も 82
南天堂でのエピソード、8月30日の和田君と村木君の話、
倉地君が対応した警番号を貼りに来た巡査の話、84
3,4年前のメーデーに僕は外神田署に引張られて、その時写真を撮られた事がある。
日付なし
686→101
村木君の生前墓標、自分の墓標の話、青山墓地の話、僕達は甘粕大尉をも福田大将をも憎みはしない、只憐れむのみである、
仲濱君は、本名を富岡誓というのだそうだ、彼のいうところによると中浜という姓は彼の祖父が名乗っていたもので......、彼が5,6年前北京に電信兵をやっていた頃の事を書いた小説「重営倉」に主人公としての自分を中浜洋介といっている、91
仲濱の姓はこの時分から考えていたものらしい、91
彼はたしか僕より三つ年上の筈だ、僕と同じように矢張り正月の元日生まれである。92
......彼はもうその時妻君があったものらしい、...九州を去って、妻君と共に北清に渡り、天津のどこかで新聞記者をやっていた、その中に愛児も出来たが、気の毒な事にはその妻君も子供も前後して死んでしまった、これが彼にとって非常の痛手であったらしい、この悲しみはいつ迄も忘れられないと見えて後年彼の詩に、チョクチョクこの悲しみを詠った所が出ている。他人には一言も言わぬらしいが、せめてこれが彼にとって一番うれしい慰めなのにちがいない。93
中浜の軍隊時代の話、支那に行く前、東京中野の電信隊に勤めていた事がある、その頃文学的な同人雑誌を友達と一緒にやって、そのために隊長に叱られて、北清に勤務を命ぜられたものだ、しかし北京に来ても性懲りもなくまた文学雑誌を創めたり新聞に投書したりしてそのため在営期間を一年間延ばされた、それで益々反逆的になって重営倉には度々投げ込まれたが、少しも辟易せず思う様自分の為したい放題に振る舞った、軍隊でもすっかり持てあまして遂に勤務を解いて内地に送りかえして終った、この辺の事は彼の小説「重営倉」に詳しく記されている。
東京に来てからは彼は中野辺に下宿して愈々文筆生活に志した、...当時憲兵隊では彼を危険人物扱いしていつも尾行をつけていた。その内に当時の社会主義全盛に刺激されて、彼もその方に注意を向けるようになり、先づ加藤一夫君の自由人連盟に加入した、......94
その後、彼は一時中名生幸力、その頃滝の川にいた、の家に同居していたが、長島新達と交わるに及んで熊谷に行き...友人の許で愉快な気儘な生活を送っていた、それから少しして東北漫遊を思い立ち、その途中蓮田で下車して僕達の小作人社に寄って始めて僕と知り合いとなった、それ以来、中浜君と僕とは影形相伴う如くに行動し来ったものである。95
★
日付なし
7 102→120
幸福だったと思うこと、
ワイルドの詩の一節 105
死刑場の前で、沢山囚人が騒いでゐる。病舎を改築するのに働いてゐるのである。
(差し入れ)山田小西君達が面倒を見てくれたのが 107
「絞首台よ」詩 116
1925年3月18日
8 121→163
「...私は理想社会の実現を信じません。アナアキイの社会が理想社会であると私は信じません、...人の一生は苦悩<苦しみ>の生涯です、安心は終に得られません、完全は終に望めません、私の根本思想はここにあります、私はこれを<虚無思想>と言い得るのでなかろうかと思います、私のこの考えは決して絶望的な廃頽的な事も意味するのではないと思います。」布施辰治弁護士に寄せた意見。
短歌
ロープシンの『黒馬を見たり』を読む。134
妹からの手紙、Sちゃんが赤ん坊を生んだ、Sちゃんのこと、事件のこと、逃げるまで、
4.5 自分はたしかに空想児である。そして今は死を空想してゐる。
4.6 ドストエフスキーの小説にある。いつも文章の下手なのを悲観してゐる
有島武郎氏は死ぬ前に一度秋の空を見たいと言つたさうだ 175
4.12 附記 もつと添削したい
9 164→195
4.8 自分の死ぬ事は他人には言はれたくない
4.9 ロシアへの思い、桜の季節、
4.10 自分は運命を乗り切る事が出来なかった、啄木のいい歌
有島武郎氏は私財を抛つて社会運動を助けた。武者小路実篤氏は自分の信念を忠実に実行して新しき村を建設した
4.11 昨年僕は、四月の十三、四日頃迄朝鮮にゐた。
当時横浜にかくれてゐた僕と倉地とは、何かの用で東京に出て来た。187
倉地はゴロリと横になつた 188
4.14 仲間たちのこと
1925年4月22日
11 196→204
4.20 これが無政府主義者の監獄生活。
4.22 一週間も入浴しない。中濱に話したら、中浜は湯好きの男である 199
村木君に留守を頼んで 200
お副食物は村木君の大好きなショウガの這入っている福神漬である。村木君はこれが大好きで好く買って来た、これだと飯が余計食べられると言って子供のように喜んでいる、
和田君が一日の昼に来た 200
村木君と僕がと窓に 201
村木君と文芸論を戦はした。村木君は大いに長谷川二葉亭を賞めた「浮雲」が話題に上つた時である。201
倉地、和田君の事、逮捕された事、前日から警視庁に張られていた事、202
4.22 しかし、ニヒリストは完全を認めない。
4.23 監獄では軍隊式に固苦しい言葉を使ふ
1925年5月12日
12 205→238
4.25 落付いている
和田君のが惜しい。和田君こそ、本統にこのまま死なせたくない。206
4.26「父と子」を読んで、
4.27 親友中浜君に送る、小阪事件はここで審理することになった、209
中濱君。大正十一年の二月、初めて言葉を交わした、蓮田の小作人社であった、長島新、大正十一年四月初め 210
月夜の月島の渡しを思い出す、210
中濱君。富川町の木賃宿に泊まった 211
中濱君。212
一昨年の冬朝鮮京城で君を迎へて以来 214
東禅寺前で君が泣いてくれた時は 214
あの京城の冬の朝は、二人とも 214
中濱君。 村木君は空しく志しを抱いて斃れて終つた。和田君は不幸にも捕へられ 215
4.27 一切の真理に囚われざるもの、これが自分の所謂虚無主義者、
4.27「父と子」の最後の一節
4.28 今日は死について考える。新緑を見ると、一昨年千住にゐた頃の事を思ひ出す。五軒長屋の西の端、感傷的になった理由、父からの便りで姉が子供を連れて帰って来たのだそうだ、
4.29 菜の花の散る時に、自分の恋、嘲笑出切る人がうらやましい、和歌を詠み始めよう
四月三十日詠 ▲ここから日付がテキストの冒頭に記される
短歌 三首 三首
5.1 短歌 九首、雀
5.3 自殺に関して、
5.4 短歌
5.4 近藤君に「近頃は、自分でも不思議な位、平静な気持ちである」と通信したが...急に感傷的になった 230
5.5 キリストに関して
5.6 青葉の色、午後驟雨
5.7 折り鶴、生の価値、「自分の若い命がいとおしい」、短歌
5.7 父からの手紙
5.8 心が穏やかになった、末の妹、妹への手紙
14 239→280
5.19 短歌二十一首、布施弁護士の話、大阪の事件は全部公開禁止、検事は富岡、河合、小西、小川、内田、茂野の六君に死刑求刑、「死ぬのは僕一人だけではなく、友人も一緒だと知ると、淋しい喜びを感ずる」243
千住の「三色の家」
(仲間との思いでの場所)
せめて名前だけでも、ハッキリ呼ばしてくれ。中濱君、河合君、小西君、小川君、内田君、茂野君、田中君、仲君、上野君、伊藤君、小西君、山田君、そして倉地君、和田君、新谷君、それから村木君。245
短歌四首
5.20 大阪の方の判決はまだ聞かぬ、それを聞くのが何だか怖ろしい。中濱君や河合君や小西君なぞには心配しなかつたが、外の若い人達の事は随分心配した。249
明日は公判だ、
小作人社の頃、渡邊善壽の証人になった 250
妹からの手紙、S子さんの事、
5.21 裁判所に行く前<午前6時頃>に感想を書く、中浜君も僕も以前から弁護士排斥論者だった、今度は中浜君は、たしかにそれを実行したが、僕は一歩退いて、それを実行できなかった、「僕のヘマから倉地君と新谷君に大変な迷惑をかけたのだから、出来るだけ両君のために弁明して見たい為に外ならぬ。」
「今日は曇天、降りそうだ、まだ呼びに来ぬ」「何だか死刑場に呼び出される気持ちを小さくしたような気持ちがする」<午前7時>
「一日で全部の<東京に於ける全部>の事実調べを済ませて、夕刻帰って来た」
歳晩の感想、和田君の熱弁もうれしかった...感動した、...自分の答弁が案外ヘドモドず、すらすら出来た事、...すっかり満足で出来て愉快だった、沢山の友人諸君が、傍聴席に控えていてくれた事は、うれしかったし、心強くも思った。
淋しかったのは、それは村木君のいないことだ、
5.22 折り鶴の事、昨日社会を見た事、活動映画のように見える、
中浜は曾てこう言った...
『蒼ざめたる馬』を読んだ、
5.23 監獄生活
5.24 初夏の郊外、和田君の陳述の中に...大震災での虐殺
1925年5月25日
5.11 <原稿前後せるまま掲載>昨日、燕を見た
5.12 誇りという事、嘲笑
5.13 死の安らかさ、自殺、有島武郎、夢、覚悟
5.14 窓の外、妹、末の妹と最後に会った時、
5.15 午後4時半の運動、死というものが未知、死の安らか、運動場の壁にGMと落書きしてあるのが今日久し振りで見つかった、言うまでもなく村木君の署名だ、
1925年5月22日
15 281→311
5.25 庭のタンポポ、死刑囚の心理状態、赤煉瓦の塀が灰色に塗り替えられた事、歌の事、後藤君への差し入れ、中浜君の詩人である事田中白袴君の詩の事、河合君の戯曲の事
5.26 看守の乱暴と囚人の心、再び『蒼ざめたる馬』、
5.27 テロリズム、曇り日だ、大阪の友人は何をしているだろう、内田君、小川君、小西次郎さん、河合君、抹殺社、茂野君、仲君、田中君、上野克己君、
5.28 監獄の役人、電気自殺、あの人、死、愛、
1925年5月29日
16 312→344
5.29 実に日の経つのが早い、も一度中浜君に会えそうな気がする、大阪の判決があったそうだ、内容は知らない、知りたくない、
5.30 大阪の友人には死刑はなかった、初めて教誨師に面会した、S子さんを思い出す、死は怖ろしくない、只、非常に淋しい、父への手紙、親戚、
5.31 義兄、姉への手紙、
5.31 快晴の朝、布施弁護士の話、山田君、小西武夫君、伊藤孝一君新谷與一郎君、『関西労働者』
6.1 静かな月を見た、倉地君、最年長者、今年36歳、和田久太郎君、クローバーの花、
1925年6月6日
17 345→360
6.2 僕の心は平静だ、今日、近藤君が来てくれた、
6.3 大阪の友人達とも愈々お別れだ、
6.4 死ぬなら今朝のような日に
6.5 入梅になったのか、
6.6 雀と遊んだ
6.7 川柳、心が落ち着かない、ジャック・ロンドン『奈落の人々』を読んだ、大正12年春、鵠沼を引き上げた中浜と僕はドン底生活をやろうというので、四谷旭町辺に家を探した事がある、中浜は...かねて考えていた『ドン底社』の旗揚げをするつもりだったのだが...『底路社』というのを作った、この『底路社』とはテロリズムのテロから採ったのだそうだ、千住の家は最初ギロチン社の落武者収容所にあてる積もりで借りたので、決して物騒な団体の根城にする考えではなかった、...表には依然として『東方詩人社』という暢気な看板がかかっていたが内部は素晴らしく変わっていた、...それは丁度2年前の今頃だったのだ、僕達の団体の発祥地であり、同時に揺藍であった千住の家...、死の近い事
日付なし
18 361→366
6.8 目覚めが不快になった、菜の花がまだ咲いている、
6.9 次の公判、あと一週間、感想録に書いた事恥づかしくなるものがある、灰色の雲、死の世界の光だ、友が懐しい、肉親のものが恋しい、僕を慰めてくれるのは、彼らの愛だけだ、死は矢張り厭なものだ、素人天文学、大星雲、月の世界
6.10 昨日、浴場で和田君と倉地君に会った
日付なし
19 367→370
6.11 牧水の『静かなる旅をゆきつつ』を読む、医者の厄介になる
6.12 普通の風邪、朝から快晴
6.13 地球の運命、短い人間の世の中、死の怖れも消え、邪悪な心も去った、安らかな気持ち、病は人を清めてくれる
6.14 白い蝶々がヒラヒラと飛んで通った、今日のように進んだ方が好かった、僕は誤らなかった、
日付なし
後半に続く