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古田大次郎『死の懺悔』

古田大次郎『死の懺悔』

編集者の前書き全文と本文項目概要、本書は古田の獄中ノートが纏められた。

古田は当初は長いテキストを書いていたが途中から日録として日付けを記し始めた。

江口渙「古田君を憶ふ」1925年12月23日


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1922年9月25日頃、鵠沼で同居するようになった。

高野松太郎君の紹介で応援に来てくれた。

古田君と暮らした鵠沼の秋は愉快な懐かしい3ヶ月であった。

今年の1月に巣鴨の刑務所で縊死した後藤謙太郎君が、その頃、宇都宮の獄から出て来て、ひょっこり鵠沼へ私達を訪ねて来た。その時、古田君があんなに無口のくせに実に気のつく人であり、かつ、温かい心の持ち主であると云う事を私ははっきりと知る事が出来た。それは自分の蟇口からなけなしの金を出して、正宗の四合瓶を二本も買って来て、酒好きの後藤君にあてがったからだ。

自己に対して施す事の実にうすい人だった。

煙草はのんだ。然し、酒は全くのまなかった。

1925年10月15日午前8時25分、市ヶ谷刑務所の絞首台に登った。その夜6時、私達10数人の友人は古田君の棺を擔って刑務所の不浄門を出た。そして17日の朝にはもう骨になっていた。


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布施辰治「序文」

古田君は......一般には勿論、一度か二度交遊した友人間にも、知られて居なかった。

古田君に交わりを求めたがった人も、獄に投ぜられた後の方が多かった。......

覚悟を語ろうとすれば、其の面会を阻止し、之を手紙に書けば、全然の発信不許可?其の点の抹消かに依りて、古田君の為人を語ったり聴いたりする交信接触の自由が奪われて居た。

此の間私は職務関係の便宜で、比較的自由に古田君が自ら語る真の為人に接触する機会を比較的多く恵まれて居た。



加藤一夫「序」

彼は僕に、彼について小説を書いてくれと云った。で、僕は既に、僕の雑誌『原始』に於て二回と『解放』で一回と短編を書いた。

1 1→17頁

1924年9月10日の未明、警視庁に引っ張られた村木君と僕とは...検事局に送られた。3

最初は大正10年12月末、例の社会主義同盟発会式前夜の建造物破毀事件の嫌疑で、区の検事局に呼ばれた事である。

警視庁の留置場に19日つながれて、9月29日の夕...村木君と僕とは...市ヶ谷刑務所に向った。4 5

中濱達の事も、ここにゐる和田君や村木君の事も、7

翌日、江口君から差し入れ弁当 8

父と妹、世田谷への引っ越し

猫のクロ

笹塚の江口君の手紙「中濱君は大阪の牢屋に、」 12

S子さんの事

2 18→32頁

大杉君は、監獄は僕達の別荘だと云つた 18

監獄、村木君の死 大杉君と 24 25

村木君を知ったのは大正11年の春、労運に遊びがてら 26

渡邊善壽と労運 26

頭に毛糸で編んだ、フチなしの帽子を被ってゐる...その人が村木君だったのである 26

中濱哲と語り合つて僕達の今日の運動を計画した。26

村木君は少しも人を責めない 27

あの日の午後急を聞いて...病室に這入った。僕よりも先に和田君が来ていた。27

和田君は赤くなつた眼をして、「もう解るまい。」と言つた。28

「村木君、村木君。」28

「村木君も死ぬのか。」29

和田君は、かう言つて、拳固で涙をグイとぬぐつた。29

和田君も情けないやうな顔をして僕を見た。30

村木君は危篤のまま、その夕、暗くなつてから、自動車で労運社に引きとられた。和田君と僕とは刑務所の玄関迄見送つた 30

村木君は、翌日の午後三時半に死んだ 30

「キリ、リと心臓が痛む。...」31

僕は恋愛や性欲などについて、自分の意見を述べた事がない。31

1925年2月25日

333→45頁

自分で生命を惜しんだわけを、大阪に捕はれてゐる友人──僕は僕のために、一年も未決に苦しんでゐる友人の嫌疑をはらさねば済まぬ身体だと思つてゐた──33

川柳一束 刑務所にて 43

裁判所にて 44

1925年2月27日

4 46→64

自分の秘密運動に対する信念について 46

参考人調書、朝鮮人K君からの批判 46

運動場から 51

運動場の前に、菜の畑がある 52

渋谷の僕の家、渋谷での10代の頃 55

宗教 58

復讐 60

小説に「モントクリスト」61

日付なし

5 65→85

クロという猫 65

鵠沼の江口君の家にゐたとき拾ひ上げたのである 65

江口君の愛犬の太郎さん 66

その内中濱が大阪から帰つて来た。彼によつて「クロ」といふ名が選ばれた。66

それは、この子猫が眞黒なのと、アナキズムの黒とからとつた名前である。 67

遊びに来た大杉君の膝の上に這ひ上つて、チョコナンと坐つたまま、大杉君に頭を撫でられてゐたときもある。67

江口君が去つてから、僕は、小田や南や、時々訪ねてくる友達と一緒にゐたが、クロはみんなの邪魔をして 67

小話一束、朝鮮でのエピソード、

和田君達の方の話だ。八月の三十日かに、例によつて村木君と和田君とは、福田の家の近くに出張して、大将の出るのを待つてゐた。80

村木君はなれた調子で 和田君に呼びかけた 81

村木君は 和田君も 82

南天堂でのエピソード、8月30日の和田君と村木君の話、

倉地君が対応した警番号を貼りに来た巡査の話、84

3,4年前のメーデーに僕は外神田署に引張られて、その時写真を撮られた事がある。

日付なし

686→101

村木君の生前墓標、自分の墓標の話、青山墓地の話、僕達は甘粕大尉をも福田大将をも憎みはしない、只憐れむのみである、

仲濱君は、本名を富岡誓というのだそうだ、彼のいうところによると中浜という姓は彼の祖父が名乗っていたもので......、彼が5,6年前北京に電信兵をやっていた頃の事を書いた小説「重営倉」に主人公としての自分を中浜洋介といっている、91

仲濱の姓はこの時分から考えていたものらしい、91

彼はたしか僕より三つ年上の筈だ、僕と同じように矢張り正月の元日生まれである。92

......彼はもうその時妻君があったものらしい、...九州を去って、妻君と共に北清に渡り、天津のどこかで新聞記者をやっていた、その中に愛児も出来たが、気の毒な事にはその妻君も子供も前後して死んでしまった、これが彼にとって非常の痛手であったらしい、この悲しみはいつ迄も忘れられないと見えて後年彼の詩に、チョクチョクこの悲しみを詠った所が出ている。他人には一言も言わぬらしいが、せめてこれが彼にとって一番うれしい慰めなのにちがいない。93

中浜の軍隊時代の話、支那に行く前、東京中野の電信隊に勤めていた事がある、その頃文学的な同人雑誌を友達と一緒にやって、そのために隊長に叱られて、北清に勤務を命ぜられたものだ、しかし北京に来ても性懲りもなくまた文学雑誌を創めたり新聞に投書したりしてそのため在営期間を一年間延ばされた、それで益々反逆的になって重営倉には度々投げ込まれたが、少しも辟易せず思う様自分の為したい放題に振る舞った、軍隊でもすっかり持てあまして遂に勤務を解いて内地に送りかえして終った、この辺の事は彼の小説「重営倉」に詳しく記されている。

東京に来てからは彼は中野辺に下宿して愈々文筆生活に志した、...当時憲兵隊では彼を危険人物扱いしていつも尾行をつけていた。その内に当時の社会主義全盛に刺激されて、彼もその方に注意を向けるようになり、先づ加藤一夫君の自由人連盟に加入した、......94

その後、彼は一時中名生幸力、その頃滝の川にいた、の家に同居していたが、長島新達と交わるに及んで熊谷に行き...友人の許で愉快な気儘な生活を送っていた、それから少しして東北漫遊を思い立ち、その途中蓮田で下車して僕達の小作人社に寄って始めて僕と知り合いとなった、それ以来、中浜君と僕とは影形相伴う如くに行動し来ったものである。95



日付なし

7 102→120

幸福だったと思うこと、

ワイルドの詩の一節 105

死刑場の前で、沢山囚人が騒いでゐる。病舎を改築するのに働いてゐるのである。

(差し入れ)山田小西君達が面倒を見てくれたのが 107

「絞首台よ」詩 116

1925年3月18日

8 121→163

「...私は理想社会の実現を信じません。アナアキイの社会が理想社会であると私は信じません、...人の一生は苦悩<苦しみ>の生涯です、安心は終に得られません、完全は終に望めません、私の根本思想はここにあります、私はこれを<虚無思想>と言い得るのでなかろうかと思います、私のこの考えは決して絶望的な廃頽的な事も意味するのではないと思います。」布施辰治弁護士に寄せた意見。

短歌

ロープシンの『黒馬を見たり』を読む。134

妹からの手紙、Sちゃんが赤ん坊を生んだ、Sちゃんのこと、事件のこと、逃げるまで、

4.5 自分はたしかに空想児である。そして今は死を空想してゐる。

4.6 ドストエフスキーの小説にある。いつも文章の下手なのを悲観してゐる 

有島武郎氏は死ぬ前に一度秋の空を見たいと言つたさうだ 175

4.12 附記 もつと添削したい

9  164→195

4.8 自分の死ぬ事は他人には言はれたくない

4.9 ロシアへの思い、桜の季節、

4.10 自分は運命を乗り切る事が出来なかった、啄木のいい歌

有島武郎氏は私財を抛つて社会運動を助けた。武者小路実篤氏は自分の信念を忠実に実行して新しき村を建設した

4.11 昨年僕は、四月の十三、四日頃迄朝鮮にゐた。

当時横浜にかくれてゐた僕と倉地とは、何かの用で東京に出て来た。187

倉地はゴロリと横になつた 188

4.14 仲間たちのこと

1925年4月22日

11 196→204

4.20 これが無政府主義者の監獄生活。 

4.22 一週間も入浴しない。中濱に話したら、中浜は湯好きの男である 199

村木君に留守を頼んで 200

お副食物は村木君の大好きなショウガの這入っている福神漬である。村木君はこれが大好きで好く買って来た、これだと飯が余計食べられると言って子供のように喜んでいる、

和田君が一日の昼に来た 200

村木君と僕がと窓に 201

村木君と文芸論を戦はした。村木君は大いに長谷川二葉亭を賞めた「浮雲」が話題に上つた時である。201

倉地、和田君の事、逮捕された事、前日から警視庁に張られていた事、202

4.22 しかし、ニヒリストは完全を認めない。

4.23 監獄では軍隊式に固苦しい言葉を使ふ

1925年5月12日

12 205→238

4.25 落付いている

和田君のが惜しい。和田君こそ、本統にこのまま死なせたくない。206

4.26「父と子」を読んで、

4.27 親友中浜君に送る、小阪事件はここで審理することになった、209

中濱君。大正十一年の二月、初めて言葉を交わした、蓮田の小作人社であった、長島新、大正十一年四月初め 210

月夜の月島の渡しを思い出す、210

中濱君。富川町の木賃宿に泊まった 211

中濱君。212

一昨年の冬朝鮮京城で君を迎へて以来 214

東禅寺前で君が泣いてくれた時は 214

あの京城の冬の朝は、二人とも 214

中濱君。 村木君は空しく志しを抱いて斃れて終つた。和田君は不幸にも捕へられ 215

4.27 一切の真理に囚われざるもの、これが自分の所謂虚無主義者、

4.27「父と子」の最後の一節

4.28 今日は死について考える。新緑を見ると、一昨年千住にゐた頃の事を思ひ出す。五軒長屋の西の端、感傷的になった理由、父からの便りで姉が子供を連れて帰って来たのだそうだ、

4.29 菜の花の散る時に、自分の恋、嘲笑出切る人がうらやましい、和歌を詠み始めよう

四月三十日詠 ▲ここから日付がテキストの冒頭に記される

短歌 三首 三首

5.1  短歌 九首、雀

5.3 自殺に関して、

5.4 短歌

5.4 近藤君に「近頃は、自分でも不思議な位、平静な気持ちである」と通信したが...急に感傷的になった 230

5.5 キリストに関して

5.6 青葉の色、午後驟雨

5.7 折り鶴、生の価値、「自分の若い命がいとおしい」、短歌

5.7 父からの手紙

5.8 心が穏やかになった、末の妹、妹への手紙

14 239→280

5.19 短歌二十一首、布施弁護士の話、大阪の事件は全部公開禁止、検事は富岡、河合、小西、小川、内田、茂野の六君に死刑求刑、「死ぬのは僕一人だけではなく、友人も一緒だと知ると、淋しい喜びを感ずる」243

千住の「三色の家」

(仲間との思いでの場所)

せめて名前だけでも、ハッキリ呼ばしてくれ。中濱君、河合君、小西君、小川君、内田君、茂野君、田中君、仲君、上野君、伊藤君、小西君、山田君、そして倉地君、和田君、新谷君、それから村木君。245

短歌四首

5.20 大阪の方の判決はまだ聞かぬ、それを聞くのが何だか怖ろしい。中濱君や河合君や小西君なぞには心配しなかつたが、外の若い人達の事は随分心配した。249

明日は公判だ、

小作人社の頃、渡邊善壽の証人になった 250

妹からの手紙、S子さんの事、

5.21 裁判所に行く前<午前6時頃>に感想を書く、中浜君も僕も以前から弁護士排斥論者だった、今度は中浜君は、たしかにそれを実行したが、僕は一歩退いて、それを実行できなかった、「僕のヘマから倉地君と新谷君に大変な迷惑をかけたのだから、出来るだけ両君のために弁明して見たい為に外ならぬ。」

「今日は曇天、降りそうだ、まだ呼びに来ぬ」「何だか死刑場に呼び出される気持ちを小さくしたような気持ちがする」<午前7時>

「一日で全部の<東京に於ける全部>の事実調べを済ませて、夕刻帰って来た」

歳晩の感想、和田君の熱弁もうれしかった...感動した、...自分の答弁が案外ヘドモドず、すらすら出来た事、...すっかり満足で出来て愉快だった、沢山の友人諸君が、傍聴席に控えていてくれた事は、うれしかったし、心強くも思った。

淋しかったのは、それは村木君のいないことだ、

5.22 折り鶴の事、昨日社会を見た事、活動映画のように見える、

中浜は曾てこう言った...

『蒼ざめたる馬』を読んだ、

5.23 監獄生活

5.24 初夏の郊外、和田君の陳述の中に...大震災での虐殺

1925年5月25日

5.11 <原稿前後せるまま掲載>昨日、燕を見た

5.12 誇りという事、嘲笑

5.13 死の安らかさ、自殺、有島武郎、夢、覚悟

5.14 窓の外、妹、末の妹と最後に会った時、

5.15 午後4時半の運動、死というものが未知、死の安らか、運動場の壁にGMと落書きしてあるのが今日久し振りで見つかった、言うまでもなく村木君の署名だ、

1925年5月22日

15 281→311

5.25 庭のタンポポ、死刑囚の心理状態、赤煉瓦の塀が灰色に塗り替えられた事、歌の事、後藤君への差し入れ、中浜君の詩人である事田中白袴君の詩の事、河合君の戯曲の事

5.26 看守の乱暴と囚人の心、再び『蒼ざめたる馬』、

5.27 テロリズム、曇り日だ、大阪の友人は何をしているだろう、内田君、小川君、小西次郎さん、河合君、抹殺社、茂野君、仲君、田中君、上野克己君、

5.28 監獄の役人、電気自殺、あの人、死、愛、

1925年5月29日

16 312→344

5.29 実に日の経つのが早い、も一度中浜君に会えそうな気がする、大阪の判決があったそうだ、内容は知らない、知りたくない、

5.30 大阪の友人には死刑はなかった、初めて教誨師に面会した、S子さんを思い出す、死は怖ろしくない、只、非常に淋しい、父への手紙、親戚、

5.31 義兄、姉への手紙、

5.31 快晴の朝、布施弁護士の話、山田君、小西武夫君、伊藤孝一君新谷與一郎君、『関西労働者』

6.1 静かな月を見た、倉地君、最年長者、今年36歳、和田久太郎君、クローバーの花、

1925年6月6日

17 345→360

6.2 僕の心は平静だ、今日、近藤君が来てくれた、

6.3 大阪の友人達とも愈々お別れだ、

6.4 死ぬなら今朝のような日に

6.5 入梅になったのか、

6.6 雀と遊んだ

6.7 川柳、心が落ち着かない、ジャック・ロンドン『奈落の人々』を読んだ、大正12年春、鵠沼を引き上げた中浜と僕はドン底生活をやろうというので、四谷旭町辺に家を探した事がある、中浜は...かねて考えていた『ドン底社』の旗揚げをするつもりだったのだが...『底路社』というのを作った、この『底路社』とはテロリズムのテロから採ったのだそうだ、千住の家は最初ギロチン社の落武者収容所にあてる積もりで借りたので、決して物騒な団体の根城にする考えではなかった、...表には依然として『東方詩人社』という暢気な看板がかかっていたが内部は素晴らしく変わっていた、...それは丁度2年前の今頃だったのだ、僕達の団体の発祥地であり、同時に揺藍であった千住の家...、死の近い事

日付なし

18 361→366

6.8 目覚めが不快になった、菜の花がまだ咲いている、

6.9 次の公判、あと一週間、感想録に書いた事恥づかしくなるものがある、灰色の雲、死の世界の光だ、友が懐しい、肉親のものが恋しい、僕を慰めてくれるのは、彼らの愛だけだ、死は矢張り厭なものだ、素人天文学、大星雲、月の世界

6.10 昨日、浴場で和田君と倉地君に会った

日付なし

19 367→370

6.11 牧水の『静かなる旅をゆきつつ』を読む、医者の厄介になる

6.12 普通の風邪、朝から快晴

6.13 地球の運命、短い人間の世の中、死の怖れも消え、邪悪な心も去った、安らかな気持ち、病は人を清めてくれる

6.14 白い蝶々がヒラヒラと飛んで通った、今日のように進んだ方が好かった、僕は誤らなかった、

日付なし

後半に続く
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# by bunkokutou | 2011-06-12 14:26

古田大次郎『死の懺悔』2

20 371→

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6.15 雨、灰色の空、僕はあの人を幸福にした、月見草の花を思い出す、詩<解散>、真に人の愛する事のいかに困難であるか

6.16 今日は小阪事件の調べだが...張合いない<出廷前記>

11時開廷、先づ僕に対する小阪事件の事実調べを終わり、次に倉地君の事実調べの後休憩、午後再開、弁護士諸君の証人申請、福田雅太郎甘粕正彦等<和田久太郎君の事件に対する証人>富岡誓、逸見吉三<新谷、倉地君及び僕の事件に対する証人>及中村高一<僕に対する証人>や松谷氏の亀戸事件実見者<所謂亀戸事件の証人>や、山崎氏の僕の父なぞ、...検事は全部必要なしとして却下し、裁判長は合議の上、只中村高一弁護士のみを証人として許した、次回は27日。午後4時閉廷。

6.17 昨日の公判の様子

6.18 今日可愛いい手紙、絵ハガキが来た、望月桂の愛嬢公子ちゃんから来たので...

6.19 雨、物静かな日だ、堺君の『売文集』にある逆徒の死生観を読んでいる

6.20 公判の時、新谷君が「早う決まればいい」、囚人の態度

6.21 最後の幕、ハンミョウに似た虫、囚人の骨休みの日兎に角僕は生きているべき人間ではないのだ、雲の形、監獄、死、

6.22 秋水の漢詩引用、昨日布施弁護士が来られた、今度こそ、最後の陳述をなすべき時だから、シッカリやれと激励してくれた、

6.24 夏、夏、若き血よ

6.25 過去の事、同じ時に起ったもののようにしか思えない

6.26「最後の陳述草稿」が昨夜ようやくできあがった、中江兆民、僕の「思い出」及び感想録に、友人諸君の偽りなき「古田大次郎観」を添えて貰おうと考えている、...で僕は次の四君にお願いしようと思っている、それは江口渙、近藤憲二、中浜哲、中村高一の四君だ、

6.27 昨日、松谷、中村両弁護士来訪「友人の刑が気にかかる、中でも倉地君のが一番心配だ」

11時開廷、中村高一君の証人調べあり、僕に対する大阪小阪事件の証拠品調べが澄んで、愈々検事の論告に移った「和田、古田、倉地の3名を死刑、新谷を懲役10年に処せられん事を」午後再開、和田君の最後の陳述後、松谷弁護士の弁論に入り、それより神道弁護士布施弁護士の弁論となった、布施氏縦横に弁を振るう事約1時間半、和田君に対する弁護を終えて、夕刻一時休憩、更に続行の筈だったが、裁判所の都合で中止となった、時に午後7時、次回は8月15日<帰監後直ちに記す>

6.28「うれしかったのは」和田君がその陳述の中に「親しくしていた古田君と一緒に死ねれば、これ以上の悦びはない」と言ってくれた事だ、僕は聞いて涙が出た、僕も和田君と一緒に死ねるなら、こんな嬉しい事はない、今、あの言葉を思い出して、どんなに和田君が慕わしいか知れない。

も一つ「うれしかった」のは帰る時、外の友人達が10数人僕達の自動車を見送ってくれた事だ。この時位、僕は友人をなつかしく思った事はない。

6.29 全て夏だ、求刑があっても心は少しも変わらない

6.30 今月限りの生命が、又生き延びた。

7.2 宗教生活、霊魂の問題、父から手紙がきた、布施弁護士に会った、僕は中濱哲君を思ふ、センチヤニン、セイリオフ

7.4 監獄の衣装部屋

7.5 楽書研究

7.6 創作でもしてみよう

7.7 矢張り死ぬ時は、この秋を選びたい

7.8 雷が好きではない

7.9 働いている囚人が羨ましい

7.10 雨の日の入浴

7.11 ドアの差入れ口に可愛い蚊帳が張られた

7.13 鏡を見た、痩せて終った

7.14 クローバーが花をつけ出した

7.15 父からの手紙

7.16 お昼にそうめんが出た、監獄の社会化

7.17 一匹の蜘蛛

7.18 相馬御風「大愚良寛」を読んだ

7.19 父の手紙は僕の心を傷つけた

7.20 江口渙君の面会

7.21 <手をとりて相笑まん日は何日ならん

親よ悲しき子を持てるかな>中浜哲のこの述懐

7.22 かたばみに黄色い花が咲いた

7.23 この頃は、晩に奇妙きてれつな夢を見る。

7.24 親同胞を思い出す、清楚なコスモスの花、S子さんを思い出す

7.27 父から安らかに死ねという一言が欲しい、反抗、隠遁、屈従

7.28 死を敵視している、任せようとする

7.30 大変生きている歓びを感じた

8.1 真夏だ。最後の夏、八月の空

8.5 歌、九首

8.7 歌、十二首

8.8 歌、六首

8.9 あと幾日の生命やら

8.10 <「峠が見えた!」一人はうれしげに云う。「俺はまだまだだ!」一人は心細げに云う。──峠を下りれば人間の世界だ。──我が道は まっすぐに、まっすぐに 雲を越え 青空を過ぎ、昇り切って 虚無の世界に入る。>

8.11 思い切り泣いて見たい。

8.13 妹の手紙、監獄の諸君へのお礼、青山墓地に眠る母の墓にも、この雨は降っている

8.14 明日は、第四回公判だ。

8.15 本日第四回公判。陳述 ──かへつてから──午後五時記

痛かった言葉三つ──

8.16 人間は複雑な感情の持ち主

8.18 僕は生まれつき心臓が丈夫でない、和田君は生命をとりとめるらしい

8.19 運動場の雑草、山崎弁論批判

8.20 愈々秋だ。淋しいが、心は益々落付いてゆく

8.23 出来るだけ書こうと思ってる。根気がなくなった。

   啄木は詠つてゐる

8.24 三日月だ。何という美しい光だろう。

8.25 松谷弁護士来訪断末魔の苦痛が気になるだけだと言ったら、ナニ絞首ということは楽なものだよと、弁護士さもさも受合ったように言う。

8.26 お別れを告げねばならない、ライオン歯磨きの袋

8.27 来月の十六日に死ぬとすると、僕の生命はあと二十日しかない、

8.28 二人の妹から手紙が来た

8.29 S子さんに対する思い

8.30 妹の手紙

8.31 如何なものになったろうか、想像

9月1日 一昨年の僕は、神戸湊川公園のベンチによりかかってゐた。昨年の僕は、東京郊外平塚の家でねそべってゐた。昨夜死刑場に引張られた夢を見た。

9.2 父からの手紙に泣かされた

9月3日 すっかり秋らしくなつた。

僕の死の覚悟は、アンマリ早過ぎるさうな。

9月6日 (日曜日、晴。)久し振りで雀の声を長閑に聞く。僕が死んでも鳴きつづけるだらう。

9月7日 (月曜日、晴。)秋の朝のやうに爽やかだ。死ぬならば...

9月9日 死の安らかといふものが解るやうになつた。

9月10日 『死刑の宣告を聞きにゆく日』

帰監後

予ての覚悟だつたから、宣告を聞いた後も、判決が思ひ通りだつた所為か、

今日は加藤一夫君が来てくれたので 485

仮監で和田君に会つた時 485

山崎君から速達で、486

9月11日 和田君を突ついて如何だいと聞いたら、486

和田君の無期が問題になつた。控訴権放棄 487

9月12日 夜の眠りは流石に安らかでない。江口夫妻が来てくれた。和田君の控訴はやめたさうだ。

9.13 (日曜日) 死んでからも世の中の事を見る事が出来るような気がする。それも、遠い遠い所からだ、遠い遠い所から豆粒のように小さい人間や、玩具のような家などがチャンと見えるような気がする、死というものが不思議になってくる、解らなくなってくる、

9月14日 永久に永久にと言ふ。

9月15日 岩佐君が来て、是非妹達に会って行けと言ふ、布施さんから、大阪の河合君の手紙を見せて貰ったが、山崎弁護士、加藤一夫氏に面会 492

9月16日 大杉君の命日だ。まだまだ生命がある。494

9月17日 愈々今日迄だ。今日古河君に会つて「昨日追悼会をやつた。」と聞いた時 495

倉地君と新谷君とに検事控訴があつた。495

明日にも和田君は他所に行く、495

雨が──何と言つても秋だ

時事新聞に出たといふ、僕の「法廷手記」は山崎君が 496

附言

この第三十二冊で止めになる。





『追想録』  今日現在の日本に於て、......一身の自暴自棄からでなく、

如何しても今の××の社会に横わる「ある大きな×××××」を××して、

大いなる衝動を世の中に及ぼさせて、未だ醒ざる者を覚醒させ、

機会を待つ人に機会を与えると云うようにしなくてはなるまいと思う。

......これが僕の本当の心なのだ。

『小阪事件』  ロシア虚無党の影響

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# by bunkokutou | 2011-06-12 14:25

「死の懺悔」を読んで 小野十三郎

 ≪「死の懺悔」を読んで 小野十三郎≫『原始』第二巻第八号、1926年8月1日

……  古田君の『死の懺悔』を読んだ。いろいろな意味に於てよい本であった。  

僕は彼に向ってタワーリッシー!とよびかける資格のないことを残念に思う、せめて古田君とよびかけることを彼にゆるして貰おう。   

×  僕に大きな喜びがある。  その喜びは自分を鞭うつ喜びである。  安心のない喜びである。  不断の反省と批判    

×  この感激、この敬愛の陰に、僕自身に向けられた皮肉な嘲笑と屈辱感がある。  彼を夢に描いている喜び。現実に見るときの戦慄!    

×  パピニはスチルネルを評して「憶病な魂に於ける革命の雄大な爆発」とよぶ。古田君も単なる煽動的著述家にはかなり反感をもっていたらしい。そう云う連中を指して「他人を勇気

づける毒瓦斯」と云っている。そして「たしかにそうした方が利巧に違いない」と附け足している。痛い言葉である。この心理は被煽動者側にも多分にある。僕ははたして僕の臆病な魂に

於ける革命の雄大な爆発を経験しなかったか。が、古田君は決してその心理を軽蔑はしなかった。彼はそれを指摘した。    

×  彼は、享楽、虚栄心、名誉慾、ヒロイズム等々、自分の体内に巣喰っているあらゆる毒虫──それらの仲間に「臆病」を加入せしめることを忘れなかった。古田君にして斯の如し。    

×  ニヒリスト実はモラリスト。  

ことわるまでもなく彼の虚無主義は、一般に云う虚無主義--哲学的、瞑想的、東洋的──とはかけ離れている。そのあくまで生活的行動的である点に於いて十五世紀のロシヤの所

謂「虚無主義者」 社会革命党の虚無主義に近い。一口にいえばアナーキストのニヒリズムだ。が彼は別な意味に於いてもやっぱりニヒリストである。彼は静観的な虚無の境地にも一種

のあこがれをいだいている。幸徳秋水がそうであった。古田君は秋水を非常に敬愛していたようだ。  

が、古田君はこの境地に徹底すべくあまりに血の気が多すぎた。この境地に安住して、いつまでもユーモアや風刺を奔して酒々楽々としているためにはあまりに「正義感」が強く「愛」が

深かった。 モラリスト実はテロリストとして古田君は生きた。

×  「死の懺悔」の或る部分は僕に「ロザ、ルクセンブルグの手紙」を想い浮かばせる。(マルクーシストのロザを引合いに出されるのは古田君にとって迷惑かも知れないが。)

彼女は「血まみれのロザ」と云う異名を頂戴した程、人も知る勇敢無比な闘士であったが一面又いかにも女性らしい優しい心情の持主であった。「内なる私の心は所謂同志によりもむし

ろ山雀に属している。」と、ロザは告白しているが、古田君にもたしかにこう云う一面があった。

獄舎の屋根に遊ぶ鳩や雀に想いをよせたり、菜の花や野菜を愛するところなど、ロザの「鳥の言葉」や「野牛の涙」等のもっともよい部分を連想せしめる。彼は何をおいてもまづ詩人であ

る。彼は自ら駄文家だなんてケンソンしているが、なかなかどうして魅惑的な文章の持主だ立派な芸術家だ。中浜君に優るとも劣らない詩人である。古田君程の文章をつづれるものは

そう沢山いまいと思う。  

×  折鶴の白き翼にしたためし  恋人の名よ、そを凝然と見る。   

×  獄中で紙の鶴を折るところがある。僕などもよく昔折紙の戯びをしたものだが、鶴だけは幾度教えられてもむつかしくって折れなかった。鶴を折る術をしっている、そのことは全く何で

もないような話だけれど、古田君のような人にしてはじめて可能な事のように思われる。彼に較べると僕の感情はまあ何と粗雑なんだろう。そしてまあ何て無器用な男なんだろう。  

×  古田君にかぎらずアナーキストによく見るこの無邪気さが僕は嬉しい。純真であることは何よりも尊ぶべきだ。  

やや、遠きものに思ひしテロリストの  悲しきこころの  近づく日のあり   啄木  

古田君は啄木と牧水が好きらしい。自分でも又沢山歌をつくっている。  

このままに死する生命か 若き血は  色あざやかに爪にあらわる。  

×  囚われの日は重なりて今日ここに  再び夏の雲を見んかな。  

など共にステキなものである。  

× 「人間が、自分自身の思い通りに行動出来るというのは間違いだ。」 

ここにまで達した彼の悩みや闘いを想像すると全くおそろしい気がする。  

肉親に対する愛!恋人のこと。同志に対する友愛など、追懐して書くべきことは多々あるが、僕はそれを他日に割愛しよう。抹殺と削除に触まれたこの一巻の書から、彼の全貌をうか

がうことはかなり冒険と云わなければならない。殊に僕は残念乍ら、彼自らもっとも価値ありとなした第三十三冊目を知らない。そこには死に直面した死刑囚の獄中記がある。勿論この

「死の懺悔」の中にも瘻々死の問題は取扱われているが僕はしばらくこの問題に突き入ることを躊躇する。その方がいい。

僕は僕の浅薄な理解を怖れるから、自己催眠をおそれるから。  

この感激と敬愛の念をもってしても、僕は猶、彼を完全に理解したと自らを説服することが出来ない。例え第三十三冊目を知る時がきても、依然としても彼の或る部分は謎のまま残って

いることだろう。完全な理解とは彼との全融合を意味する。僕の性格、僕の境地、僕の生活をもってそれは可能であるだろうか。  

×  古田大次郎!  ここに一つの純真な魂がある。  

「愛」の名による苦悩への意志がある。  テロリストの悲しき心がある。  

むしろ宗教的な狂熱と意慾!  黒き旗!  剛健な同志!  

そしてまた山雀の小さな魂!  大きな澄んだ眼がある

 一人の赤裸々な人間が立っている。





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市ヶ谷風景 萩原恭次郎
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# by bunkokutou | 2011-06-12 14:19

ギロチン社の活動

ギロチン社の活動 

 中浜鉄と古田大次郎を中心とした活動組織がギロチン社。著名な会社へのリャク行為と資金獲得のための銀行員襲撃、大杉栄らの虐殺への復讐を目的とした労働運動社の和田久太郎(震災時の戒厳令司令官、福田雅太郎狙撃未遂)村木源次郎との共同行動、その後の爆弾使用が震災後の社会不安と相乗されネーミングも含め社会にインパクトを与えた。

 1922年2月、中浜は埼玉、蓮田の小作人社に立ち寄り、古田大次郎と意気投合、同志的交流が深まる。 4月には社会変革のため死を賭した行動の盟約を古田と結び、中浜は来訪中のイギリス皇太子を狙うが断念。1922年10月、早稲田の戸塚源兵衛<現新宿区西早稲田>に大きな二階家を借り、翌1923年始めにかけ倉地啓司、河合康左右らが同居や出入り「ギロチン社」と名付けられた集団がたちあがる。

 夏頃には関西に拠点を移し、分黒党とも名乗るが、中浜、河合が好んで使った。この時期のリャク行為が事件として扱われる。(中浜は高島屋呉服店、天満織物、実業同志会の件) 1923年、ギロチン社メンバーが警察に検挙され、古田は中浜らと身を隠す。

 9月、ギロチン社は関東大震災での大杉たち活動家の虐殺に直面し、権力者や資本家を直接攻撃する行動に向かう。大杉虐殺を号外で知り「よし、思い知らせてやる」と決意する。田中勇之進の甘粕五郎襲撃の (殺人未遂)を起こす。

 古田は小川と内田に手伝いを頼み 10月16日、小阪の十五銀行出張所の銀行員を襲うが現金の奪取を失敗したうえに、誤って銀行員を刺殺してしまい、東京へ向かう。中浜はこの件でも計画に関与として教唆(強盗殺人)で立件される。この頃、中浜は後に広く知られる「杉よ !眼の男よ!」という大杉への追悼詩を執筆。

 古田、中浜たちは大杉虐殺の復讐を計画していた労働運動社の村木源次郎や和田久太郎と共同した活動も始め、ピストルや爆弾を獲得するため朝鮮に赴き、義烈団との接触をすすめる。古田は11月の半ば、友人の高島と一緒に京城に行く。後に中浜も合流。

 義烈団に爆弾 10個、拳銃5丁購入を申し込むが入手できず、さらに資金確保のため、大阪に戻った中浜は 1924年3月30日(14日)リャクを行い、実業同志会事務所から出たところを恐喝犯として逮捕される。

 1924年7月17日、東京に戻った古田は東京蛇窪の家へ移り自身で爆弾製造にとりかかる。

谷中の共同便所を爆破、青山墓地でも試す。

9月1日、和田は福田の狙撃に失敗、逮捕される。

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古田は 9月3日の晩、和田が留置されていた本富士署に爆弾を投げるが不発、小包爆弾を製造し、郵送。

6日に福田邸で小包が爆発するが怪我人は無し。

翌晩は銀座の電車軌道にしかけ爆発するも損害は無し。

世間は騒然となるが 9月10日未明に村木源次郎と共に警察に捕まる。

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 中浜の第一審は1925年5月5日の3回公判で死刑求刑。

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 5月28日、無期懲役の判決。古田の第一審は1925年9月10日、死刑判決が出される。弁護人の山崎今朝弥、布施辰治は反対したが、 古田は死刑を受け入れ、控訴せず、同年 10月15日午前8時25分、絞首される。

 古田の純真な思いが 表現された獄中手記『死の懺悔』が出版されベストセラーとなる。中浜は検事控訴により大阪控訴院で1926年3月6日死刑判決となる。上告せず、 4月15日午前10時に絞首された。

 中浜は判決直後の 3月中には死刑を執行されると 覚悟、山崎今朝弥弁護士に辞世の歌を記したハガキを送る。

「弥生空 魏櫓枕高く 霞往く 黒蝶ぞ我 散る花に 舞う」

 中浜の控訴審死刑判決や他の同志の過重な量刑の判決には多くの疑問がある。

 中浜が構想していた集団の理念は以下の内容であった。

「此の集団は最初其処には、宣言もなく、一定の綱領もなく、従って運動に対する各自の部署とてもなかった。些の拘束をも厭う無政府主義思想であり組織制度をも認めず他人を支配して犠牲になることも肯ぜず唯自主自発的に自決して、相互に兄弟愛を持って、扶助し生活しようとしたのである。」(『獄中記』)。

 しかし現実にはリャクを繰り返す事が目的化し、仲間たちの団結は薄れ、中浜自身も直接実行したのはリャク行為だけである。

 メンバーの倉地啓司が後にギロチン社総体の目的に関して「当時の摂政宮への攻撃であった」と話している。 (『新過去帳覚書』71年刊)。しかし実行されずに、周辺には曖昧な話ながら洩らし、確かな計画からは程遠いものであった。

 恐喝以外の実行に関与しなかった中浜にも死刑判決が出されたのは、イギリス皇太子や摂政宮へのテロリズムの意志に対しての報復判決で思想を裁いたと理解するしかない。

 
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中浜は「実際の神體 ──特別至上なる架空的権威を抹殺する為に闘争の力を以って…」(「闘争への道」) と獄中から寄稿した論文では天皇打倒を示唆している。またギロチン社の目的はテロリズムだけではなくコミューン建設をも遠い目的としていたことを中浜は示唆している。


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# by bunkokutou | 2011-06-12 08:52




ギロチン社古田大次郎、中浜鉄の活動
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